【私が癒えるまでの全記録】⑮ 母の最期の言葉に絶望したけど生きていく
私の母は、2019年の8月、病院で息をひきとりました。
弟をほめちぎり、妹を心配し、私をけなすような言葉を残して…。
「母にほめてほしい、認めてほしい」と願っていた私は、地獄の底に突き落とされたような心境になりました。
今回は、絶望に近いような深い悲しみを味わった私が、それでも生きていくために、半ば無理やり、自分の心を整えたことについて、お伝えします。
母の最期の言葉は私を絶望させた
ひどい腹痛に耐えられなくなり、病院を受診した母。
末期ガンと診断され、緊急入院となりました。
みるみるうちに病状が悪化し、入院して3週間後には、食事もとれない状態に…。
病床の母は、亡くなる数日前、急に、私たち兄弟について語り始めました。
弟には、「兄弟三人が仲良く過ごしているのは、あなたのお陰」と感謝し、弟がいかに素晴らしい人であるかをほめちぎり、身体をいたわり、健康を願う。
妹の将来を心配し、弟に面倒をみてやってほしいとお願いする。
私のことは、「ナオミは、バカで、のろまで、肝心なときに役に立たない」とくたし、私に対するうらみごとをグチグチと言う。
その後、妄想と現実が入り混じったような話をひとしきり続けた母は、いつの間にか静かになり、そのまま、目を開けることも、言葉を発することもなく、数日後に息をひきとりました。
心のどこかで、「母にほめてほしい。認めてほしい」と思っていた私は、母の最期の言葉に、呆然自失の状態に…。
わ・た・し・だ・け・ダ・メ・人・間・か。
どんなに頑張っても、もう、母には認めてもらえない。
ダメの烙印を押されたまま、私は一生を終えるしかない。
すべてを放り投げ、ひきこもり、泣き暮らしたいような絶望感が、腹の底からにじんできて、全身をめぐります。
自力で心を整えて生きていく
母が亡くなった数時間後。
現実から遠のいてしまいそうな意識の中、私は考えます。
翌日には母の葬儀をとりおこなわなければならず、その後も、死後の手続きが山のようにある。
父は、施設に入っているので、もろもろのことを、私、弟、妹の3人でこなさなければならない。
でも、実家がある福島に住んでいるのは、妹だけ。
職場でとった休みは、あと1週間で、おしまい。
東京へ戻ったら、仕事、家事、子育てといった現実も引き受けて、生きていかなければならない。
ひきこもって泣き暮らすことは、私には許されない。
急場しのぎでもいいから、心を整えないといけない。
そう思った私は、まず、シャワーを浴びながら、感情を放出することにしました。
深い悲しみを十分に感じながら、大きい声をあげてオイオイ泣くと、気持ちが少し軽くなります。
気持ちが少し軽くなると、冷静に考える余地が生まれる。
それで、母の最期の言葉から生じた絶望と同じ分だけ、母にしてもらって嬉しかったことを、思い出の中から集めていきました。
- 私が小学校3年生のとき、弟には内緒で、二人きりでソフトクリームを食べたこと。
- 私が大学に合格して上京する際、知らない土地に出向くことが嫌いな母が、学生寮に入る手続きをするために、一緒に東京へ来てくれたこと。
- 私が出産直後、知らない場所へ行くこと、知らない人と接すること、仕事を休むことが嫌いな母が、1週間仕事を休んで、私と夫が住むマンションへやってきて、私の世話をしてくれたこと。
などなど。
すると、考え方のバランスが整い、別な思いが浮かんできます。
母は、私にひどい言葉を投げかけるけれど、私のことを心底、憎んでいたわけではない。
私は母に愛されていたのかもしれない。
そこで、自分が納得するような考えをひねり出します。
だれかに認めてもらうのではなく、自分で自分を認めることが大切。
そのことを、身をもって私に教えるために、母は最期に、私をくたす言葉を残したのだ。
その考えは、私の気持ちにもフィットし、母に対する感謝の涙が流れます。
シャワーを浴びる間、20分程度の作業でしたが、私の心はスッと整いました。
お陰で、母の葬儀、東京での生活、何度も帰省しておこなった死後の手続きも、表面的には、スムーズにこなしていけたのです。
無理なやり方は諸刃の剣
ネガティブなことと同じぐらい、ポジティブなことをそろえて、考え方のバランスをとる。
これは、ジョン・F・ディマティーニの著書、「世界はバランスでできている!」からヒントを得た方法。
日常生活でも、ちょいちょい使っていました。
※考え方のバランスを取る方法については、こちら。
残念ながら、母の最期の言葉を聞いた私の心は、考え方のバランスをとっただけでは、おさまりません。
それで、「自分が納得するストーリーを作る」という方法も加えてみました。
一説によると、私たちは、「幻想」から苦しみを作り出していると言われています。
たとえば、「母にないがしろにされたのは、私が価値のない人間だから」という幻想にしがみついていると、現実社会でちょっとでも自分を粗末に扱われると、「やっぱり私はダメな人間なんだ」と、苦しい思いがわきあがってきます。
でも、それを逆手に取り、たとえ、嘘八百だとしても、納得するストーリーを作り出すことができれば、「幻想」から幸せを生み出すこともできるのです。
ただ、私の作った「だれかに認めてもらうのではなく、自分で自分を認めることが大切。そのことを、身をもって私に教えるために、母は最期に、私をくたす言葉を残したのだ」というストーリー。
ちょっとできが悪かったんですよね…。
とどこおりなく日常生活を送ることには役立ちましたが、「だれかに頼ること、だれかに受け入れてもらうことを、遠ざける」という副作用も出てしまったのです。
そのせいで、しばらく、自分に孤独な闘いを強いることとなりました。
母の死は、私にとって、大きな転機となりました。
危機的な状況というのは、ネガティブな方向にも、ポジティブな方向にも、どちらにも転がり得ると言われています。
私の場合、母の最期の言葉を思い出すと、今でも悲しくて涙がこぼれてしまいますが、その分、精神的に鍛えられて、たくましくなってきたんじゃないかと。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。